昭和41年03月19日 夜の御理解
御伝記教祖金光大神を拝誦させて頂いて、教祖の神様の人となりというか、又深く頂かれた信心の真に、いわゆる深さというか、広さというか、そういうものに至る所で、それに触れさせて頂くんですけど、例えば神様から、これまでおかげを受けて来た事を、手控えにしておけとお指図があった。それで、ずっとそのおかげを受けられてこの方の事を、いうなら自叙伝風に書かれたんですね。日々、それを書き溜めておいでられて、ある所に註を入れておられる所があります。
ここまで書いたらね自ずと悲しゆうなったのだ。悲しゅうなると云う所がありますね。そういう天地の親神様と金光大神が一つになって、感泣しておられる。ようもようもこう云う様な事が出来たというて。本当に詩人であるならば歌の一つでも作ろうと、絵描きであるならこれを絵にでもしたいと云う所だけれども、と云う様に表現しておられますね。 そういう一つの信心の真味というかね。
信心の味わいという、本当に考えてみれば見る程に、ようもようもここまで、おかげを頂いて来たもんであるという感慨というか。そこに金光大神の感泣、感極まって泣いておられる所をちゅう間にそれを書いておられます。 同時に最近、否定とか肯定と言った様な風な事について、色々頂くんです。けども本当にいち川手文治郎に返られた時には、いわゆる人から金光大神様とこう云われておられる教祖の神様が、何時、この方とても、神様から暇が出るやら分らんと云う様なお気持ちがある。
かというと、この方金光大神の言う通りにすれば、おかげになるとか。この方金光大神あって神が世に出たとか言うて、神様の恩人と言われ御座る様な事を平気で、金光大神としての立場。取次者としての立場としては、それははっきり何のよどみもなしに言い切っておられる事ですね。この方金光大神あって神は世に出たんだと。神様の金光大神は恩人だと云う事を、川手文治郎と言った様な物は、みじんも感じさせないすっきりした言葉で表現しておられますですね。
金光大神あって神は世に出たとか、この方金光大神の云う事を言う通りにすれば、おかげになるとか云う様に、ご自身と、例えば取次者、金光大神としての公私の別というかね。混同しておられないと云う所なんか、もう素晴らしい事だと思うんですね。最近、高弟とか師弟とかいう言葉をもって言うあたりを、こう云う所にはっきり表現しておられると言う風に思いますですね。
只今のご祈念にかかる前に、久富くにかさんからお届けがあった。娘さんが中学卒業されまして高校に進学されます。それに今日県立の高校も受けておられましたんですけども、合格しなかった。私立の方は合格のおかげを頂いた。ここにまあ親としてですね。本当に県立に通らせてやりたかったと、どうしてじゃろうかとフッとこう心の中に思うたと、こういうんですそしたら、神様その事をお礼申させてお礼半分暫く考えよったら、それ先の事じやないけど考えてみりゃそりゃおかげを頂いておると云う事です。
それは、私立の高校を受けられる時の事を、ご自分で思われたんじゃろうと思うんです。その時でも事情があったんです。けれども矢張り、そこんとこを神ながらのおかげを受けられて、私立の方に受けられたと云う事だけでも、本当におかげを頂いておるのに、こんな不足な事を思うてと言いながらも、矢張り心の中には、矢張り何処か隅に不足がある。そんな事神様にお礼を申させておられたら、白い御飯の中に髪の毛が一本入っておるとこを頂くんです。ここ一両日頂いておる事ですね。
例えば梅干しのつぼの中に、白い虫がこうウジウジ動いとったという、あれと同じなんです。せっかく、白い御飯がママになろうというのに、ただ髪の毛一本のその事で、もう信心にその人間としては、そう思うのが当り前なんだけども、これ程の信心を頂いておってです。この辺がすっきりしないと云う事は、私から言うても可笑しい位。本当におかげを頂いた。それからこっち、又なるほど意欲を燃やして県立を受けたんだけども、あれは信心の稽古をさせて下さった。
強させて下さったと言う様な事にすきっと頂けんもんだろうかと私は感ずるんですね。そしたら次に又、頂いておられる事が鯛、お魚の、鯛を天ぷらにしておられる所を頂かれた。是でお前の信心は、この程度のものぞと。こう神様から指摘されておられるものを感じますですね。成程久富勇さんといや、兄さんの繁雄さんの信心よりも素晴らしいごと皆がいいよる。迫力もある。実意丁寧でもある。成程立派です。
けども神様の目から御覧になると、そういう時に直面した時に日頃のおかげですね。鯛のお知らせはおかげと仰るが、お前の頂いておるおかげというのは、あれは天ぷらぞと言う事。外観だけぞと。例えば、天ぷら工事と申しますでしよ。川の堤防なんかを、あの土建屋の人なんかが請負いますたい。はや、もう立派に出来上がったごとある。所が中の方をコンクリ少なく入れたり、中が空いたりしとるもんですから、いよいよ大水の時に、がばあとくえたりします。
あれを天ぷら工事と、こう申します。いかにも、自分はどうか知らんけども、人から見ては、本当にあの方達夫婦の信心は、素晴らしいとこう言うておるのだけれども。神の目から見ると、まだまだお前の信心は天ぷらぞ。それが、こういう時に直面した時に、髪の毛一筋入っておる様なことであろうがと云うことを、もうはっきり指摘しておられる。まあ、ほんとに久富さんですら、それなのだから、お互いの信心は推して知るべし、と云うことになるですね。
どうでしょうか。その点がですね。そう云うところが、私共は、本当に、もうすっきりし過ぎるごとしとったと云うことです。何時の場合でも、本当にです。私は、思うんですけども、何の為に、本気で本当の信心がでけて、いないかと云うことなんです。これだけの信心がでけておる様であっても、そこに直面したら、もう人間が絡んでおる。どうしてがは、さがっておる。
それが後で分っていてもです。もうそれは白い御飯に髪の毛が一つ入っておる様な事。そこで自分の信心がまだまだほんなものじやないぞと云う事を分らせて頂いて、信心を進めて行きよるという、こう云う事です。今日もある方から、今日の高校の入試に合格しなかったというお届けがあった。まあ私はこの方達の場合、ある意味でもう安心しております。一家中の信心がそれなんかあんまり、問題にしないと思うとりますから、実に楽なんです。しかし、しもうたねと思わん。それこそおかげと思うんです。
お取次ぎさせて頂いた、とたんに頂きますのが、出光と云う事です。あの出光興産というあれがあるでしょう。光が出るとこういう。この事によって、光を出すのじやなくて、出さなければ駄目ぞと云う事。例えば、若先生が高校時代の時から、大学受験の時の事を、いっちょ思うてみたらよいです。出来なかった事が、言わば、これから光を放とうかと言う様な道を、まっしぐらに進めさせて頂ける様な、お繰り合せに、なって来ておったと云う事なんです。
ですから、こう言う所を、さっきから私が申します。金光大神をはいしょうさせて頂いてから、実感する金光大神の中身ですよ。出光と云うことがです。例えば、おかげの元になるとこう、はっきり思い込まれる。思い込まれるということと同時に又、そうさせれるという一つの自信というものが、もりもり湧いて来なけりやならんと云うことと同時に、その反面にや、本当に私共の信心で出来る筈はないと云うことです。まあ、いっちょは。信心は不行き届きであった。
相済まない事であったと、云うことなんです。神様に対する。この方、無学な百姓で何も分らんという、何時、神様から、お暇が出るか分らんという程のそれなんです。けど、これも又、一つの立場から見るとです。これが、おかげにならん筈はない。これが、光にならん筈はないという頂き方。この方、金光大神あって、神が世に出たと。この方だれだれがあって、お道の信心が、一段と光を増した事になると云う様な、おかげにしていけれるという確信なんです。
と同時にです、私の信心が不行き届きのために、子供に、又孫にこんな悲しい思いをさせて相済みませんというそれこそ、神様から何時ひまが出るやら分らんという、戦々恐々というですかね。もう本当に、自分自身の信心を穴があったら入りたいごとある信心の気持ちが、そこから開けて来なければいけない。言わば、肯定もしなければ、否定もしないと言った様な所の信心からそう言う様なものがです、生まれて来るんじやないだろうかと、こう思うんですね。
久富さんのその事から私は思うんです。お互いの信心を一つ思うてみてです。本当にもう、ようと考えてみよるとおかげ。ようと考えてみるばってんちょうと思うと、どうするやろうかと思う。その事がすでにほんなものでなかち言う事。けど信心はそこんところを本なものにしていく精進が信心の稽古ですし、それが又素晴らしいのですよ。一つ、天ぷらである、天ぷらであるという、本当に格好はあげんしとるばってん、中身はもう、本当に天ぷらじやけのと言えれるだけのです。
ものを自分ではっきり把握して、そこから本当な信心を、本当な信心へという信心を辿らせて頂かねばならんと思うんですね。もう金光大神を拝誦して、私共なんかは最近はもう読みませんけれども、以前、出たはなに読ませて頂いて頭に残っておる金光大神の内容というものがですね。どこをみても素晴らしい。そしてその生活のご様子というものがです。又ものに対する考え方、頂かれ方、思われ方というものが。
こういう場合に、金光大神はこう言う風にして頂いておられると云う事を思い比べてみて、一つのあれはまあ、絶対の手本なのですけど、その絶対の手本を一つの手本としてです。私共はそれに近づかせて頂けれる信心に、神ながらに進んでいきたいと思うんです。その神ながらに進んで行くと云う事が、起きて来る様々な事態が、すでに神ながらですから、その事を通して、信心を本当なものにして行かなければならんと思うですね。
どうぞ。